東京高等裁判所 平成10年(行ケ)73号 判決 1999年5月13日
神奈川県南足柄市中沼210番地
原告
富士写真フィルム株式会社
代表者代表取締役
宗雪雅幸
訴訟代理人弁護士
中村稔
同
富岡英次
同
宮垣聡
同弁理士
小川信夫
訴訟復代理人弁理士
関根武
東京都千代田区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官 伊佐山建志
指定代理人
鐘尾みや子
同
高梨操
同
後藤千恵子
同
小池隆
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第1 請求
特許庁が平成9年審判第3709号事件について平成10年1月28日にした審決を取り消す。
第2 当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和59年8月31日、名称を「感熱記録材料」とする発明(以下、「本願発明」という。)につき特許出願(昭和59年特許願第182460号)をし、平成6年10月12日出願公告がされたが、平成7年1月9日特許異議の申立てがあり、平成8年12月13日、上記特許異議の申立ては理由がある旨の決定とともに、拒絶査定がされたため、原告は、平成9年3月13日拒絶査定不服の審判を請求した。特許庁は、この請求を同年審判第3709号事件として審理した結果、平成10年1月28日、本件審判の請求は成り立たない旨の審決をし、その謄本は、同年2月14日原告に送達された。
2 本願発明の要旨
電子供与性無色染料、電子受容性化合物およびビスアリールオキシアルカン誘導体を含有する感熱記録層を中性紙上に設けたことを特徴とする感熱記録材料。
3 審決の理由
審決の理由は、別紙審決書の理由写し(以下「審決書」という。)に記載のとおりであり、審決は、本願発明は先願明細書(特願昭58-166011号の願書に最初に添付した明細書(特開昭60-56588号公報。本訴における甲第3号証)に記載された発明(以下「先願発明」という。)と同一であり、本願発明の発明者が上記先願発明の発明者と同一であるとも、また、本願の出願時に、その出願人が上記他の出願人と同一であるとも認められないので、特許法29条の2第1項の規定により特許を受けることができないと判断した。
第3 審決の取消事由
1 審決の認否
審決の理由1(手続の経緯・本願発明の要旨。審決書2頁3行ないし11行)は認める。
同2(引用例。審決書2頁13行ないし6頁15行)は認める。
同3(対比・判断)のうち、一致点、相違点の認定(審決書6頁17行ないし7頁11行)は認める。相違点についての判断(審決書7頁13行ないし8頁4行)のうち、「一般的に、「紙」の概念には「中性紙」も含まれている」ことは認め、その余は争う。
同4(むすび。審決書8頁6行ないし13行))のうち、本願発明の発明者が先願発明の発明者と同一であるとも、また、本願の出願時に、その出願人が上記他の出願人と同一であるとも認められないことは認め、その余は争う。
2 取消事由
審決は、先願明細書の開示事項を誤認したため、本願発明と先願発明とは同一であると誤って判断し(取消事由1)、また、本願発明が顕著な効果を奏し、選択発明として新規性、進歩性を有することを看過したものであるから(取消事由2)、違法なものとして取り消されるべきである。
(1) 取消事由1(先願発明の認定の誤り)
審決は、「感熱紙の支持体に使用される紙についても、この出願前において酸性紙と同様に中性紙が用いられていることは、引用例1乃至引用例5の記載より明らかである。また、先願発明において用いられている「紙」の中から中性紙のみを除く根拠がどこにもなく、先願発明の出願時における技術水準を勘案すれば、先願発明において用いられている「紙」には「中性紙」も含まれているとみるのが妥当である。」(審決書7頁14行ないし8頁2行)と認定するが、誤りである。
先願明細書(甲第3号証)には、感熱記録体の支持体について、「特に限定されず、紙、合成繊維紙、合成樹脂フィルム等が適宜使用される」(6頁左上欄4行、5行)と記載されているところ、感熱記録材料の分野では、単に「紙」と言う場合は酸性紙を指すものであり、審決は、先願明細書の開示事項の認定を誤ったものである。
<1>(a) まず、引用例1ないし5(甲第4ないし第8号証)の記載からは、先願発明の出願時に、酸性紙と同様に中性紙が用いられていたことが明らかであるということはできない。かえって、先願発明の出願時において、感熱記録紙の基紙として使用する「紙」と言った場合には「酸性紙」のことをいうのであり、「酸性紙」以外の紙を使用する場合には、明確に「中性紙」と称し、区別していたものである。例えば、引用例2(甲第5号証)は、支持体が中性ないしアルカリ性の紙であることを特徴とする地肌の保存性を改良した感熱紙に関するものであるが、「従来より、紙と言えばロジンサイズ又は石油樹脂サイズなどを硫酸アルミニウム、塩化アルミニウムなどで定着させたいわゆる酸性紙が主流であり、感熱紙の面でも、この酸性紙が使用されて来た」(2頁右上欄10行ないし14行)と記載されており、この記載は、感熱記録紙の基紙として通常使用される紙が酸性紙でり、中性紙は使用されていなかったことを明瞭に示すものである。
(b) また、原告がパトリスにより検索したところ、昭和46年7月1日から本願出願時までに、出願公開された感熱記録紙に関する特許出願の総数は、2028件である。このうち、明細書中に「中性紙」又は中性紙と同義の用語を使用したものは、引用例1ないし5の5件にすぎない。
(c) したがって、単に「紙」としか記載されていない先願明細書には、「中性紙」に関する記載はないとみるのが妥当である。
<2> なお、先願出願前には、感熱記録材料に限らず、一般的な「紙」についても、中性紙が酸性紙とは別のものであると認識され、日本市場では一般化していなかったものである(甲第9ないし第15号証-紙パ技協誌36巻1号等)。
さらに、本願出願時には、中性紙の製造技術自体が発展途上であったものであり(乙第10号証-中央技報410号)、本願出願の直前である昭和57年の時点で、我が国おける紙・板紙の全生産量のうち、中性紙化されていたものの比率も、2%強にすぎない(甲第16号証-紙パルプ技術タイムス26巻6号)。
<3> 被告は、アルキルケテンダイマーないしアルキルコハク酸無水物等の中性サイズ剤を使用して抄紙した紙が公開特許公報(乙第1ないし第8号証)に開示されていることから、本願出願時において、感熱記録紙の基紙として酸性紙も中性紙も同様に用いられていたことは明らかである旨主張する。
しかしながら、被告の上記主張は、アルキルケテンダイマー等の中性サイズ剤を使用して抄紙した紙は必ず中性紙になるという前提に基づいているが、アルキルケテンダイマー等をサイズ剤として用いるとしても、サイズ剤全体に対するこれらの中性サイズ剤の割合によっては、抄紙された紙が中性紙にはならないこともあり得るものであるから、前提からして誤っている。
さらに、乙第1ないし第8号証には、酸性サイズ剤と中性サイズ剤が渾然と記載され、具体的な配合の比率は記載されていないから、最終的に抄紙された紙が中性紙になるか否かは、これらの開示からは知ることができないものである。
<4> 以上から明らかなとおり、先願出願当時、一般に「紙」というときには、主流は酸性紙であり、殊に感熱紙の分野においては、特に断らない限り酸性紙を意味していた。このような状況にあって、数件の特許公報に、感熱紙として「中性紙」が例外的に使用できることが記載されていたことをもって、本願出願当時、感熱記録体の材料として用いられる「紙」に「中性紙」が含まれることが、当業者に周知であり、記載されているも同様だとは全くいうことができない。
(2) 取消事由2(顕著な効果の看過)
先願発明における「紙」が中性紙も含むものであったとしても、本願発明は、感熱記録紙として特に「中性紙」を選択し、その結果、顕著な作用効果を得たもので、選択発明として進歩性を有するものである。
すなわち、本願発明は、感熱記録紙の基紙として中性紙を選択したことにより、従来の酸性紙を基紙とした感熱記録紙に比し、発色画像の堅牢性を飛躍的に高め、記録紙としての顕著な作用効果を奏するものである。本願出願当時、当業者がかかる異質な作用効果を容易に予測できたということはできない。
<1> 本願発明の作用効果を確認するために、本願発明にかかる中性紙を基紙とした感熱記録紙と酸性紙を基紙とした感熱記録紙との発色後の発色画像の堅牢性の相違を実験により確認した(甲第17号証)。
これによれば、中性紙を基紙として使用した感熱記録紙は、酸性紙を基紙として使用した従来の感熱記録紙と比較して、発色画像の堅牢性がはるかに優れている。
すなわち、発色直後の画像部の光学濃度は、酸性紙を用いた感熱記録紙の方が8%高いが、経時的に光学濃度が低下するため、1日後には、中性紙を用いた感熱記録紙の画像部の光学濃度よりも低くなり、3日後にはその差は更に大きくなる。
すなわち、画像部の光学濃度の発色直後の光学濃度に対する比率は、中性紙を用いた感熱記録紙では、1日後で95%(低下率5%)、3日後で81%(低下率19%)であるのに対して、酸性紙を用いた感熱記録紙では、1日後で85%(低下率15%)に、3日後には58%(低下率42%)にまで低下している。
<2> 本願発明の奏する顕著な効果は、本願明細書(甲第2号証)にも記載されている。
すなわち、本願発明の目的は、発色濃度及び発色感度が十分で、しかもその他の具備すべき条件を満足した感熱記録材料を提供することにあり(4欄3行ないし5行)、本願発明にかかる感熱記録材料は、発色濃度及び発色感度が十分で、しかも発色感度の経時低下及びカブリが少なく、発色後の発色画像の堅牢性も十分であるとの作用効果を有する(4欄29行ないし32行)と記載されている。
さらに、本願明細書の当初明細書(乙第9号証)には、「塗液は最も一般的には原紙上、好ましくは、中性紙上に塗布される」(5頁左下欄18及び19行)と記載されている。これは、本願出願時における、単に紙といえば酸性紙を意味するとの技術常識を前提として、中性紙に特定の感熱組成物を含む塗液を塗布したときに発色画像の堅牢性等の作用効果が顕著に発現することを特に明らかにするために、中性紙に塗液を塗布すべきことを明記したものである。また、実施例の試料1ないし7の作成に使用された基紙は中性紙であって(6頁左上欄4行)、基紙として酸性紙を使用したものは開示されていない。試料1ないし7はいずれも高い発色濃度を示している(6頁右上欄第1表)。
第4 審決の取消事由に対する認否及び反論
1 認否
審決の認定、判断は正当であって、原告主張の誤りはない。
2 反論
(1) 取消事由1(先願発明の認定の誤り)について
先願明細書(甲第3号証)には、感熱記録体の支持体について、「特に限定されず、紙、合成繊維紙、合成樹脂フィルム等が適宜使用されるが、一般には紙が好ましく用いられる。」(6頁左上欄4行ないし6行)と記載され、実施例にも、塗液を原紙上に塗布して感熱記録紙を得ることが明瞭に記載されており(6頁右上欄20行ないし左下欄3行)、支持体として「紙」を使用することが具体的に記載されている。そして、感熱紙の基紙としては、酸性紙も中性紙も「紙」として同様に用いられ得るものであったことから、「紙」の上に所定の感熱記録層を設けることが開示されている先願明細書中には、中性紙上に所定の感熱記録層を設けることが十分に開示されているものである。
<1>(a) 引用例1ないし5(甲第4ないし第8号証)には、感熱記録紙の基紙としてアルキルケテンダイマーやアルキルコハク酸無水物等の中性サイズ剤を使用して抄紙した中性紙を用いることが明瞭に示されている。
(b) さらに、乙第1号証(特開昭55-140589号公報2頁右上欄5行ないし10行)、乙第2号証(特開昭56-53094号公報2頁左下欄8行ないし13行)、乙第3号証(特開昭57-98393号公報2頁左下欄2行ないし8行)、乙第4号証(特開昭58-69090号公報4頁右下欄3行ないし6行)、乙第5号証(特開昭58-69091号公報4頁左下欄11行ないし15行)、乙第6号証(特開昭58-69094号公報2頁右下欄19行ないし3頁3行)、乙第7号証(特開昭58-69097号公報2頁右下欄6行ないし9行)、乙第8号証(特開昭58-136492号公報3頁右下欄1行ないし4行)には、感熱記録紙の基紙に用いられる紙の製造に用いられるサイズ剤として、ロジンサイズ剤及び硫酸バンド(製造された紙は酸性紙となる)と並列して、アルキルケテンダイマーやアルケニルコハク酸が例示されている。
そして、アルキルケテンダイマーやアルケニルコハク酸等の中性サイズ剤が中性紙の抄紙に使用されるものであることは乙第10号証(中央技報410号)より明らかであるから、乙第1ないし第8号証に酸性サイズ剤と中性サイズ剤が無造作に羅列されているということは、本願出願前に感熱記録紙の基紙として酸性紙や中性紙が区別なく用いられていたことを明瞭に示すものである。
原告が主張するように本願出願時、紙といえば酸性紙を意味していたとするならば、乙第1号証ないし乙第8号証には、抄紙した紙が中性紙となり得るような上記サイズ剤は一切記載されていないはずである。
(c) したがって、本願出願時において、感熱記録紙の基紙として、酸性紙も中性紙も同様に用いられていたことは明らかである。
<2>(a) 原告は、パトリスによる検索結果に基づく主張をするが、乙第1ないし第8号証にも示すように、本願出願前において感熱記録紙の基紙として、「中性紙」という用語が用いられていなくても、中性紙が、酸性紙が使用されていると同様に使用され得るものであったことは明らかであり、単に特定のデータベース中に「中性紙」という用語が使用されている例が少ないことのみをもって、「紙」の概念から「中性紙」を排除することはできない。むしろ、「中性紙」という用語が使用されている例が少ないことは、記録紙の基紙としては「酸性紙」も「中性紙」も「紙」の概念の中で一般化されており、特別な場合以外はあえて「中性紙」という用語を用いて区別する必要がなかったことを示すものである。
(b) また、原告は、甲第9ないし第15号証に基づく主張をするが、いずれの証拠も「紙」の概念の中に中性紙が含まれることを明確に示しており、過去及び現在においてコストや生産量の面から、酸性紙の方が多く用いられていることが事実であるとしても、単に生産されている「紙」が酸性紙主体であることのみをもって、「紙」の概念の中から中性紙すべてを排除することはできない。
(c) さらに、原告は、中性紙の生産量等に基づく主張をするが、本願出願前において中性紙は「紙」の概念に含まれており、単に生産量が少ないことのみをもって、中性紙が酸性紙と同様の意味において「紙」として認識されていなかったとすることはできない。
(2) 取消事由2(顕著な効果の看過)について
<1> 上記(1)のとおり、先願発明における「紙」には中性紙も含まれているから、基紙として中性紙を用いたことによる原告主張の効果は、先願明細書にその旨の記載がなくても、中性紙を用いることによって必然的に奏せられる効果にすぎない。
<2>(a) 本願明細書には、発色画像の堅牢性を高めるために中性紙を感熱記録紙の基紙に用いるという技術思想の開示はなく、感熱記録紙の基紙として中性紙を使用しこれに特定の感熱組成物を塗布したことにより発色画像の堅牢性が高まるという作用効果についての開示もないことから、本願発明は原告の主張するような選択発明には当たらない。
すなわち、本願発明の当初明細書(乙第9号証)には、「感熱記録材料の最小限具備すべき性能は、(1)発色濃度および発色感度が十分であること、(2)カブリ(使用前の保存中での発色現象)を生じないこと、(3)発色後の発色体の堅牢性が十分であること、などである」(1頁左下欄15行ないし19行)と記載され、「本発明の目的は発色濃度および発色感度が十分でしかもその他の具備すべき条件を満足した感熱記録材料を提供することである。」(2頁右上欄2行ないし4行)と記載され、さらに、「本発明の目的は、電子供与性無色染料、電子受容性化合物およびビスアリールオキシアルカン誘導体を含有することを特徴とする感熱記録材料により達成された。」(2頁右上欄6行ないし9行)と記載されている。しかしながら、効果については、実施例に本願発明による記録材料が発色濃度と発色感度において高い値を示すことが記載されているだけで(6頁左上欄17行、18行及び右上欄第1表)、発色後の発色画像の堅牢性が十分である旨の記載は一切見出せない。また、「塗液は最も一般的には原紙上、好ましくは、中性紙上に塗布される」(5頁左下欄18行、19行)と記載されているが、中性紙を使用するということと発色後の発色画像の堅牢性との因果関係については、本願発明の当初明細書のどこにも記載されていない。
(b) さらに、「紙」の選択に関しては、酸性紙と中性紙の二者択一であるから、本件は、選択肢が多枝に想定されるものの中から特定のものを選定するという選択発明の議論になじまないものである。
理由
1 一致点、相違点の認定等
本願発明の発明者が先願発明の発明者と同一であるとも、また、本願の出願時に、その出願人が上記他の出願人と同一であるとも認められないことは、当事者間に争いがない。
そして、本願発明の要旨(第2、2)は当事者間に争いがなく、審決の理由のうち、2(引用例。審決書2頁13行ないし6頁15行)、3(対比・判断)のうち一致点、相違点の認定(審決書6頁17行ないし7頁11行)は当事者間に争いがない。
2 取消事由1(先願発明の認定の誤り)について
(1) 先願明細書に、「なお、支持体についても特に限定されず、紙、合成繊維紙、合成樹脂フィルム等が適宜使用されるが、一般には紙が好ましく用いられる。」と記載されていることは当事者間に争いがなく、甲第3号証によれば、先願明細書の実施例には、塗液を原紙上に塗布して感熱記録紙を得ることが記載されていること(6頁右上欄20行ないし左下欄3行)が認められる。
そして、一般的に、「紙」の概念には「中性紙」も含まれていることは、当事者間に争いがない。
先願明細書の上記「紙」には、酸性紙との限定はないから、特段の事情のない限り、上記「紙」は中性紙を含む意味で使用されていると認めるべきところ、以下、上記「紙」が酸性紙に限定されると解すべき特段の事情があるか否かについて検討する。
(2)<1> 引用例1ないし5の記載事項の認定(審決書3頁末行ないし6頁15行)は、当事者間に争いがない。
これらの記載によれば、先願発明の出願前に出願公開となった引用例1ないし5には、感熱記録紙の基紙としてアルキルケテンダイマーやアルキルコハク酸無水物等の中性サイズ剤を使用して抄紙した中性紙を用いることが記載されているものである。
<2> また、乙第1ないし8号証によれば、先願発明の出願前に出願公開となったこれらの公開特許公報には、感熱記録紙の基紙に用いられる紙の製造に用いられるサイズ剤として、アルキルケテンダイマーやアルケニルコハク酸が例示されていることが認められるところ、乙第10号証によれば、これらのサイズ剤は中性紙の抄紙に使用されるものであることが認められる。
<3> 以上の事実によれば、「紙」が酸性紙に限定されると解すべき特段の事情は認められず、先願明細書に接する当業者は、先願明細書中の前記「紙」の記載を酸性紙と中性紙を含むものとして理解するものであり、先願明細書には、電子供与性無色染料、電子受容性化合物及びビスアリールオキシアルカン誘導体に相当する物質を含有する感熱記録層を中性紙上に設けた感熱記録材料が開示されていると認められる。
<4> 原告が指摘する(a)引用例1ないし5中の記載、(b)パトリスの検索結果、(c)先願出願前当時の中性紙の利用状況等、(d)乙第1ないし第8号証に中性サイズ剤の使用割合が記載されていないこと等の事情も、上記認定を左右するものではない。
(3) よって、本願発明と先願発明とはその構成においてすべて一致し、両者は同一である旨の審決の判断に誤りはなく、原告主張の取消事由1は理由がない。
3 取消事由2(顕著な効果の看過)について
原告は、先願発明における「紙」が中性紙も含むものであったとしても、本願発明は、感熱記録紙として中性紙を選択した結果、従来の酸性紙を基紙とした感熱記録紙に比し、発色画像の堅牢性が飛躍的に高まるとの顕著な効果を奏するものであるから、選択発明として新規性、進歩性が認められるべきである旨主張する。
(1) しかしながら、先願明細書には、電子供与性無色染料、電子受容性化合物及びビスアリールオキシアルカン誘導体に相当する物質を含有する感熱記録層を中性紙上に設けた感熱記録材料が開示されており、本願発明と先願発明とが同一であることは、前記2に説示のとおりであるから、原告主張の発色画像の堅牢性の効果は、先願発明の奏する効果の確認にとどまるものであり、本願発明は選択発明として特許されるべきである旨の原告の主張は理由がない。
(2) なお、仮に、先願明細書に本願発明の構成が具体的に開示されていないとしても、原告の主張は、本願明細書に記載がなく当業者に自明でもない効果に基づき選択発明を主張するものであり、この点からも理由がない。
すなわち、甲第2号証によれば、本願明細書には、「本発明の目的は発色濃度および発色感度が十分でしかもその他の具備すべき条件を満足した感熱記録材料を提供することである」(4欄3行ないし5行)、「本発明に係るビスアリールオキシアルカン誘導体を含有した感熱記録材料は発色濃度および発色感度が十分で、しかも発色感度の経時低下およびカブリが少なく、発色後の発色画像の堅牢性も十分である」(4欄29行ないし32行)と記載されていることが認められるが、乙第9号証によれば、本願発明の当初明細書にも、同様の記載がある(2頁右上欄2行ないし4行、右下欄19行ないし3頁左上欄3行)ことが認められ、この記載によれば上記発色画像の堅牢性の効果は、本願発明の出願当初から、基紙として中性紙を使用した場合にも酸性紙を使用した場合にも等しく得られる効果として記載されていることにすぎない(本願発明の特許請求の範囲は、平成3年8月9日付けの手続補正書により、当初のものに「感熱記録層を中性紙上に設けた」の文言が付け加えられ、基紙として中性紙を使用するものに限定されたものである。)ことが認められる。
さらに、乙第9号証によれば、本願発明の当初明細書には、「塗液は最も一般的には原紙上、好ましくは、中性紙上に塗布される」(5頁左下欄18行、19行)と記載されていることが認められる。しかしながら、本願発明の当初明細書には、実施例として、基紙に中性紙を使用したものが記載されているが(6頁左上欄4行)、その実施例の効果については、「第1表から本発明による記録材料が明らかに感度が高いことがわかる。」(6頁左上欄17行、18行)と記載されているだけで、発色画像の堅牢性についての記載はなく、本願発明の当初明細書の他の箇所にも、中性紙の使用と発色画像の堅牢性との関係についての記載はない(補正後の本願明細書(甲第2号証)にもこの点についての記載はない。)ことが認められる。
したがって、本願発明において、中性紙を使用したものが発色画像の堅牢性が著しく高いとの原告主張の効果は、本願明細書に記載がなく、当業者に自明な効果であるとも認められないから、選択発明である旨主張する原告の主張は、明細書に記載のない効果を主張するものとして、採用することができない。
(3) よって、原告主張の取消事由2は理由がない。
4 結論
よって、原告の請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。
(口頭弁論終結の日 平成11年4月20日)
(裁判長裁判官 永井紀昭 裁判官 塩月秀平 裁判官 市川正巳)
理由
1. 手続の経緯・本願発明の要旨
本願は、昭和59年8月31日の出願あって、その発明の要旨は、平成3年8月9日付手続補正書によって補正された明細書の記載からみて、特許請求の範囲の請求項1に記載された次の通りのものと認める。
「電子供与性無色染料、電子受容性化合物およびビスアリールオキシアルカン誘導体を含有する感熱記録層を中性紙上に設けたことを特徴とする感熱記録材料」(以下「本願発明」という。)
2. 引用例
これに対して、原査定の拒絶の理由である特許異議の決定の理由で引用された、本願の出願の日前の他の出願であって、その出願後に出願公開された特願昭58-166011号(特開昭60-56588号公報参照)の願書に最初に添付した明細書(以下「先願明細書」という。)には、「無色ないしは淡色の塩基性染料と、該染料と接触して呈色し得る呈色剤との呈色反応を利用した感熱記録体において、感熱記録層中に下記一般式〔Ⅰ〕で表される化合物の少なくとも一種を含有せしめたことを特徴とする感熱記録体。
<省略>
〔Ⅰ〕
(式中、Xは-O-又は<省略>を示し、R1~R6はそれぞれ水素原子、炭素数が1~8のアルキル基、アリール基、アルアルキル基を示す。なお、置換基R1~R6は互いに結合して芳香環を形成してもよい。nは1から10までの整数を示す。)」が記載されており(特許請求の範囲)、明細書第19頁第4行~第6行には、「なお、支持体についても特に限定されず、紙、合成繊維紙、合成樹脂フィルム等が適宜使用されるが、一般には紙が好ましく用いられる。」と記載されている。
同じく原査定の拒絶の理由である特許異議の決定の理由で引用された、本願出願前公知の特開昭55-14281号公報(以下「引用例1」という。)には電子供与性無色染料とビスフェノール化合物を含有する感熱記録層を熱抽出pH6~9の基紙上に設けたことを特徴とする感熱記録紙が記載されており(特許請求の範囲参照)、支持体として中性域から弱アルカリ性域のpHを持つ原紙を用いたときに、高温多湿下保存時にカブリ発生の少い感熱記録紙が得られることが記載されている(公報第2頁右下欄末行~同第3頁左上欄第2行参照)。
同じく特開昭55-41277号公報(以下「引用例2」という。)には、支持体上に染料前駆体と酸性顕色剤とを含有する感熱記録紙に於て、該支持体が中性乃至アルカリ性の紙であることを特徴とする地肌の保存性を改良した感熱紙が記載されており(特許請求の範囲参照)、明細書中において、酸性紙を感熱紙に使用すると、染料前駆体と酸性顕色剤の組合せによっては、湿熱カブリ、熱カブリの点で実用に耐えないものとなることが指摘されている(公報第2頁右上欄第17行~第19行参照)。
同じく、特開昭55-156087号公報(以下「引用例3」という。)には、発色性物質とフェノール性物質とからなる感熱性塗料を中性紙に塗布することを特徴とする保存性を改良した感熱紙の製造方法が記載されており(特許請求の範囲参照)、PH5以下の紙を感熱紙の基紙に用いた場合は地色のカブリを生じやすい傾向があり、紙面PHを5以上に保つことにより長期保存においても地色のカブリが非常に少い感熱紙が得られることが記載されている(公報第1頁右下欄第1行~第14行参照)。
同じく、特開昭56-115292号公報(以下「引用例4」という。)には、冷水抽出pHが6:0~9.0の範囲内である支持体に、染料前駆体と接触して発色する顕色剤を含有する層を設けることを特徴とする保存性を改良した記録紙が記載されており(特許請求の範囲参照)、支持体に中性~弱アルカリ性域の冷水抽出pHを持つ原紙(中性紙)を用いた時に顕色剤を塗布した記録紙は経時による発色能の低下、及び塗布面の変色(地肌カブリ)が抑制されることが記載されている(公報第2頁右下欄第9行~第14行参照)。
同じく、特開昭57-208297号公報(以下「引用例5」という。)には、染料前駆体とフェノール物質を主として組合せてなる感熱層を支持体上に設けた感熱紙において、感熱層を水抽出PHが6~9の片つや紙のキャスト面に塗工した感熱紙が記載されており(特許請求の範囲第3項参照)、いわゆる中性紙である水抽出PHが6~9の紙は、感熱紙の支持体として用いた場合に地肌の保存性が良く、印字性が良好であることが記載されている(公報第2頁右下欄第9行~第15行参照)。
3. 対比・判断
本願発明と先願明細書に記載された発明(以下「先願発明」という。)とを比較すると、先願発明における「無色ないしは淡色の塩基性染料」、「該染料と接触して呈色し得る呈色剤」が、本願発明における「電子供与性無色染料」、「電子受容性化合物」にそれぞれ相当し、先願発明における「一般式〔Ⅰ〕で表される化合物」が本願発明における「ビスアリールオキシアルカン誘導体」に相当することは明らかであるから、両者は、本願発明においては感熱記録層を中性紙上に設けているのに対し、先願発明においては感熱記録層を紙上に設けてはいるが、特に中性紙とは明記していない点でのみ相違し、その余の点では一致している。
上記相違点について検討する。
一般的に、「紙」の概念には「中性紙」も含まれている。さらに、感熱紙の支持体に使用される紙についても、この出願前において酸性紙と同様に中性紙が用いられていることは、引用例1乃至引用例5の記載より明らかである。また、先願発明において用いられている「紙」の中から中性紙のみを除く根拠がどこにもなく、先願発明の出願時における技術水準を勘案すれば、先願発明において用いられている「紙」には「中性紙」も含まれているとみるのが妥当である。
したがって、本願発明と先願発明とはその構成においてすべて一致し、両者は同一である。
4. むすび
以上のとおりであるから、本願の請求項1に係る発明は、先願明細書に記載された発明と同一であり、しかも、本願発明の発明者が上記先願明細書に記載された発明の発明者と同一であるとも、また、本願の出願時に、その出願人が上記他の出願人と同一であるとも認められないので、特許法第29条の2第1項の規定により特許を受けることができない。
よって、結論のとおり審決する。